2013/02/27

ハビタランドスケープ008 山辺の道・奈良


大物主神と祭祀の発生

奈良盆地の南東の地に座す三輪山は、山そのものをご神体と仰ぐ古神道の姿を伝えている。山沿いに続く山やまのべ辺の道には、大和朝廷草創期の古墳が連なる。古代の人はいかに神を祀ったのか?





海を照らしてやってきた神

鈍色の空の切れ目から、幾筋もの光が降り注いでいる。
冬の田畝が広がる平野は、ごく薄い翡翠色をした山々の重なりに融け込む。近鉄桜井線の車窓から久しぶりに見る奈良盆地の印象は、昔と変わるところがない。古代からのまどろみの中にあるような風景の中を、トコトコ、ローカル線が進んでいく。


桜井駅で降り、北へ向かって歩く。目の前には一筋の川が横切り、その奥にくっきりと三角形の形を成した山が佇んでいる。深い庇のついた帽子を被ったようなその山は、頂き付近は黒い森に覆われ、どことなく威厳を放っている。古代から山そのものがご神体である御諸山(みもろやま)であった三輪山だ。この山に祀られる神の名を大物主神(おおものぬしかみ)という。この神は海の彼方から「神(あや)しき光、海を照らして、依り来る」(古事記)というSF映画『未知との遭遇』のような光景で出現した。『古事記』、『日本書紀』(以下『記紀』)に伝わるところによると、大国主神(おおくにぬしのかみ)が国造りをしていた時、共同建設者の少彦名神(すくなひこな)が、完成しないうちに常世の国に帰ってしまう。大国主神が独り愁えているところに、海を照らしてやってきた神が「よく我を祭れば、ともによく国造りを行おう」と述べた。大国主が「どのように祭ればいいのでしょう?」と尋ねると、「倭の青垣の東の山の上にいつきまつれ」と答えた。これが三輪山であった。飛来して三輪山に治まった大物主神とはどのような神なのか?そんなことを考えながら、三輪山から盆地の山麓沿いを春日山まで続く、古代の街道「山辺の道」(やまのべのみち)を歩くことにしよう。

 
三輪山の麓を横切る川は大和川だ。このあたりでは初瀬川(はつせがわ)と呼ばれる。三輪山北東方面の山地に発し、奈良盆地を横切り、生駒山と葛城山のあいだを抜け、大阪湾に至る。ちょうど初瀬川が山地から盆地部にでるポイントに、海石榴市という日本最古の市がある。ここは古代には交通の要所であり、難波津に上陸した海外からの使節団も大和川を船で遡り、ここまでやって来た。実在した可能性の高い最初の天皇、崇神(すじん)天皇の磯城瑞籬宮(しきのみつかきのみや)がすぐ近くにあり、国内外の様々な人間が入り交じる場所だった。祝祭性を帯びた「ハレ」の空間は、見知らぬ男女が歌を咏みあい、声を掛け合う出会いの場所(歌垣)となった。古代の男女はどのように求愛したのか、海石榴市に伝わる歌を紹介しよう。「たらちねの、母が呼ぶ名を、申さめど、道行く人を、誰れと知りてか」(万葉集)。こんな感じだ。「お姉さん、お名前は?」「お母さまが呼ぶ私の名前を教えてもいいけども、通りすがりのあなたは誰か知らないので、教える訳にはいかないわ」。ストリート感の中に、追いたい心をくすぐる、実に上手い句でないか。テレビも小説もない時代、生身の人間が発する声と言葉のセンスがメディアであった。一瞬で、異性の心を射抜いた言霊は、千数百年間日本人の記憶するところとなった。







禁足地と蛇

三輪山の山裾をオフセットした曲線に沿って、町家が並ぶ街道が続いている。いくつかの町家の玄関にはシャモジが掲げられていた。地元の方に聞いてみると「米寿」(88歳)のお祝いのしるしなのだという。朽ちかけた土壁、石仏が祀られたお堂などを脇目に静かな山道を歩いて行くと、突如、お正月の参拝者で賑わう通りに出る。ここは大神神社の参道だ。参道の麓には大きな鳥居がそびえ、屋台が並ぶ。大神神社は神道の最も古い姿を残しているといわれ、本殿がない。拝殿からご神体である三輪山そのものを拝むという形態だ。千年以上に渡って禁足地を保ってきた三輪山では一切の草や石を取ることが禁じられ、山には、神を祀る磐座(いわくら)が存在する。磐座とはなんだろうか?大神神社元宮司の中山和敬氏によると「磐座はかならずしも、岩石・巨石、その集群を見つけて、これを直接に畏敬し、そのものを神とするものではない。日本人は古来、そこを神座と心得、神を招き奉ってはじめて祭祀を行ない、崇拝をするのである。」(中山和敬、『大神神社』)。また、三輪の恵比寿神社の宮司・竹内久司氏に「岩というものは誰かが念をいれたものもあるので注意が必要です」と教わった。磐座は、神道発生以前の、おそらく縄文まで遡れるほど古い、神を宿す神籬(ひもろぎ)としての空間と言うことができる。
だが、それは神と対峙する専門家たちが述べるように、いたずらに触れてはならないものだと感じる。我々一般人の姿勢としては、拝殿からそっと拝むのがいい塩梅なのだろう。


大神神社の拝殿の前に参拝者たちが生卵を置いていく。卵とは蛇の好物だ。三輪山の大物主神は蛇の姿を現すことで知られている。『記紀』にこんなエピソードがある。巫女であった倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)(以下、モモソ姫)は大物主神の妻であった。大物主神が夜にのみ現われて昼間は来ないのを不満に訴える。大物主は「汝の櫛笥(くしげ)(櫛の箱)に入っているから驚くな」と応える。翌日櫛笥を開けると小さな蛇がいた。モモソ姫は驚いて叫ぶ。大物主は「汝は吾に恥をかかせた。今度は吾が汝に恥をかかせよう」と言い、空を踏んで三輪山へ登っていった。モモソ姫は悔やんで陰(ほと)を箸で突き死んでしまう。箸墓古墳という名の古墳が、大神神社から下った場所にあり、彼女を葬った墓であるとされている。三世紀末に築造された、日本最古のこの巨大前方後円墳は、卑弥呼の墓であるとも言われている。







写真 渋谷健一郎

続きはソトコト3月号にて。

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